アジア集団安保構想

アジア集団安保構想とはソ連のアジア安保構想のことで、ニクソン米政権の登場と、アジアの反共諸国のベトナム後の安保の模索、中ソ国境対立など激動の1970年代におけるアジアを睨んで、69年6月9日、ソ連のブレジネフ共産党第一書記、そして7月10日、グロムイコ外相がソ連最高会議で提唱したものです。この構想は従来の欧州集団安保構想とほぼ同一の基調で、諸国家間の軍事的対抗関係としての軍事同盟の否定、全アジア諸国の安保を目的とし、アジア諸国自身による創設、など基本原則が打ち出されていました。インドなどは非同盟の立場からは集団安保も軍事同盟であると反対し、中国は米ソ共有を基調とした北からの中国封じ込めであると反発していましたが、71年末の第三次印バ戦争、72年初頭の米中接近、特に73年初めのベトナム和平の実現以来、再びこの構想を持ち出していました。
太平洋防衛同盟とは北大西洋条約機構NATO同様の軍事ブロックを創設しようという構想のことで、最初にこの構想を持ち出したのは、オーストラリア、フィリピンなどでず、朝鮮戦争を契機にアメリカが太平洋、大西洋戦略の重要な柱と考え、1951年ANZUS、日米安保条約、米比相互防衛条約、54年SEATOを結成しました。60年代に入って、アメリカのアジア戦略、特にインドシナ戦略の破綻が濃くなるにしたがって、アメリカは日米安保体制を軸に戦略の再編強北を目指し、66年のASPAC、東南アジア開発閣僚会議、ASEANなどの結成を歓迎しました。

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