コンゴ問題

コンゴ問題は1960年6月末、旧ベルギー領コンゴ、現在のザイールが独立して以来、この国をめぐる西方列強対コンゴ民族の闘争、西方列強相互の対立を言います。従来からザイールは、アフリカ大陸の心臓部であり、軍事戦略的に重要な地域であるうえに、アフリカの宝石といわれるほど重要資源の宝庫でもあり、西方列強の垂涎の的となってきました。ベルギー、フランス、イギリス、アメリカなどぱ数十億ドルを投資して資源をおさえてきました。独立によってルムンバ民族主養政権が生まれたことは、この西方列強の膨大な利権に低触する危険がありました。そこで独立一週間をへずして旧宗主国ベルギ一が武力干渉を開始、同時に分離主義をあおってカタンガを独立させました。ルムンバ首相の要請で国連軍が入ってきましたが、それは事実上アメリカの介入を許すことになりました。国連軍の保護下で、60年9月親米的なカサブブ、モプツの反ルムンバクーデターがおこされ、61年初めルムンバ首相はチョンベの手て殺されました。一時民族主義勢力がおさえられた状況下で、今度は西方列強の利性をめぐる争いが激しくなり、61年から62年12月にかけてカタンガ戦争が三度にわたって行なわれました。この戦争では親米派のカサブブ、モブツ派が親英仏ベルギーのチョンベ派に勝利しました。この間一時退潮していた民族主義勢力は、再び台頭し、64年初めから、東部で武装闘争を関始しました。武装闘争はまたたく間に広範な地域に拡がり、これに対して相争いあっていた親西方二派は、NATOの支持をえて64年秋スタンレービル事件に表れたように民族主義勢カを撤底的に弾庄しました。民族主義勢力を抑えたあと再三にわたって親西方二派の間に対立が表面化しましたが、結局、65年秋のモブツの軍事クーデターで親米派が決定的に勝利しました。

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